車の運転

半年から1年ぶりに、やむを得ぬ事情で車を運転(具合の悪いちちを医者へ)。こんなときに限ってじじは山梨。というか、こんなときに限って具合が悪くなるちち。

 家 → 医者 → スーパー → 家

思っていたよりは感覚を覚えていて、事故はもとより、さほどひどい迷惑をかけることもなかったと思うのだけれど、帰ってきてほっとしながら車庫入れをしたら、そこでじじの(大事な)自転車と接触。うわーっ!!! 車には(目立ちづらい箇所ではあるけれど)傷。じじの自転車は…どうかなぁ。歪んだりしてそうだなぁ。こわいなぁ。確か高い自転車なのになぁ。(こわいのでカバーをめくって見ていない。)

ままがよく、免許は早いうちに取った方がいいと言っていたのだけれど、こういうことなのかなぁ。ひとつには、若いときの方が身体能力が優れているし、飲み込みも早いことがあって(これはまあ容易に想像がつくけれど)。もうひとつには、こどもや家族など自分に守るものができてからだと、どうしても運転が臆病になってしまうことがあって。こちらは今になってやっとわかったのだけれど。被害者になるこわさはもちろん若くても持つだろうけれど、それ以上に今は加害者になるこわさがいつも頭にあるわけなのです。

10年前に比べて、身体能力も飲み込みも確実に落ちていることは認めるけれど、なにより今のわたしの運転のへたさ加減は、後者の影響を強く受けてる気がします。運転をした上でへたくそなのではなくて、運転すること自体がこわいのだもの。

道を歩くのも、自転車に乗るのも、へたな方ではないと思います。周りの状況を判断して、人に迷惑をかけないように、ベストな速度やルートを選ぶの。こどもを連れていたりすると、そちらに気がいってしまうので(まあ年のせいもあるかな)以前ほどには注意力がなくなっているとは思うけれど、でも、へたな方ではないと思う。

それらはでもたぶん、こどもの頃から、いろいろ無鉄砲であぶないことをした経験に基づくものなんだろうなぁと思うんだよね。こわいもの知らずで、あれこれやっては、いくつか危ない目に遭ったりして。そして少しずつ学んだことなんだろうなぁと。

今は、その無鉄砲さが足りない。だから、経験が詰み重ならない。

じゃあ、こわいもののない若いうちに、もうちょっと無鉄砲に(無自覚に)運転していたらうまくなっていたのかな〜というと、確かにそうなんだろうなと思う。でも、それならそれでいいのかというとそれもちょっとこわい。車は、人力である歩きや自転車とはパワーが大きく違うもの。なにもなくて済めばいいけれど、そうでない場合だって決してあり得なくはないはず。

じゃあ、どうしたらいいのかなぁ、と思うけど。

どなたかが、先日、ブログで、車の免許をとる人間は、まず最初にとれる年齢になったら原付をとれ、原付で交通ルールを覚えて、車道を走る感覚を養って、その後、車に移れ、というようなことを書いていて、ああ、それは、ひとつの手かもしれないなぁ、と思いました。

原付というと、まっさきに、若者の事故が多い〜、というイメージが湧いて、あまり積極的に例えばこどもを乗せたいという印象はなかったのだけれど(むしろ遠ざけたい)、車に比べれば、被害者となる可能性は高くとも、加害者となる可能性はずっと低いのではないかな。まずはその環境に身を置いて運転を学ぶ、というのは、理に適っているかもしれない。

わたしも原チャから再スタート…?

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