Monthly Archive for 4月, 2006

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針仕事

今日は、ちくちく針仕事をしています。

ほたるの入園用の名前つけはようやく少し前にひと段落して、昨日くらいから、母の納骨の際に使うさらしの袋をつくっています。

東京では、骨壺のままお墓に入れる場合がほとんどだと思いますが、うちのお墓では、さらしの袋に移してお墓に入れるのだそうです。やがて土に還るのですね。関西ではこの方法が多いと聞きました。京にある南禅寺の教えを受けた(…という表現でいいのでしょうか)お寺さんなので、その影響なのかもしれません。

母に甘えっぱなしだったので、針仕事なんてほとんど高校のときの家庭科の授業ぶり。自分の針箱すら持っていません。母が使っていた古びた針箱を借りて、ちくちくやっています。

なんとか暮らしています

3週間が経ちました。なんとか生活しています。

気持ちを整理するため、自分への記録のため、心配して覗いてくれている友人のため、少しでもここに何かを記したいと思うのですが、日中はまだなにかと慌ただしく、夜は脳に命令を下されているかのように起きていることができず、娘と一緒に眠ってしまっている毎日です(眠りそのものは浅く何度も目は覚めるのですが)。

この1週間は、立川へ通知状やお香典返しの手配に行ったり、仏壇を決定しに行ったりして過ごしました。

立川は、ルミネと伊勢丹へ。これが思いの外、今のわたしには辛い作業でした。思えば小学生くらいの頃から、母娘水入らずでどこかでかけるとなると、新宿や立川の伊勢丹を中心としたデパートが多かったのですね。家族で出かけるときには旅行が多かったけれど、母娘となると伊勢丹が多かった。小学校の移動教室前、中学の修学旅行前、大学入学や就職活動でスーツをつくる必要があったときや、妊娠してマタニティウェアが必要となったとき、新生児ベビー服を探しに行ったとき、少し大きくなってからは、ほたるの服も買いに。思えば、人生の要所要所、いつも母の好きだった伊勢丹に足を運んでいたのでした。そして亡くなる5日前にも、ほたるの卒園遠足(一緒に行きました)の多摩動物公園の帰り、立川伊勢丹の1階、いつものスタバでラテを飲み、そのときの写真が生前最後の写真となったのでした。

そんな立川伊勢丹に一人で足を運ぶにはまだ早すぎました。そんな気はしていたけれど、実際にその場に行ってみると、想像以上にいろいろな思い出が多くて、自分でも驚きました。入口で大きく深呼吸して中に入ったものの、入ってからも階ごとになんらかの思い出があり、思い出したりして。

特につらかったのは、やはり1階スタバ付近で、最後に座っていた椅子を見ること。見たくないけど、見ておかなくては、逃げてはいけない、というような。まだ母がそこに座っているような気がする中、足が震えるようでしたが、母と同じ飲み物(アイススタバラテ。甘くないのね、なんて言いながら飲んでいたのを思い出します)を頼み、同じ椅子に腰掛けて飲んできました。

お香典返しは、そんな伊勢丹からのものになる予定です。親しい方には、ああ、好きだった伊勢丹ね、と思っていただけるかもしれません。

夢を見た

母の夢で目を覚ましました。亡くなって2週間。初めての母の夢です。

花屋さんの店先に母が横たわっていて、運ばれるべきところに運ばれるのを待っています。なぜか夢の中では、花屋さんが葬儀の進行に関わっているようなのでした。ふと、母の上半身、いや、首から上だけかな、が動いてこちらを見て二度笑いかけました。見ていたわたし(とあともう一人…誰だったかは思い出せない、女性だった、大人だったけど雰囲気からするとほたるだったのかな)は驚いて、でもうれしくて、「やっぱり生きていたんだ!」と。でも、よろこんでいるわたしたち(と、母も一緒に聞いていたような気もする)に、その場にいた花屋の若い店員さんが、それはやはり無理です、これこれこういう状態で亡くなっているはずです、と説明してくれる。説明が終わってわたしたちがうなだれる頃には、隣りで一緒に説明を聞いていた(と思う)母もまたもとの店先に横たわり、もう先程のように動く気配はない。

というものでした。母が亡くなって一番悲しかったのは、もう動く母を見ることはないんだ、一緒に話をすることはできないんだということでした。亡くなった夜から、せめて夢でもなんでも動く母に会えたらと思い続けていた。今夜、楽しい夢ではなかったけれど、母が笑うところを見られて、それが叶いました。これからまた少しずつ脳が母を思い出すことを許していってくれるのでしょう。うれしいな。

どうもありがとう(誰にかはわからないけれど)。
おやすみなさい。

悲しいお知らせ

悲しいお知らせです。もっと早くにご報告したかったのですが、時間や心の状況がなかなかそれを許さず遅くなりました。

先月21日明け方、前日までいつもとなんら変わりなく元気だった母が、突然の脳出血にて亡くなりました。週末から行っていた山梨の家でのことでした。明け方、父が寝ている母の呼吸の異変に気づき、救急車を呼びました。わたしは東京にて午前4時過ぎ祖母からの電話にてそのことを知り、急ぎ山梨に駆け付けましたが間に合わず、病院の安置室にてまだ温かさの残る母と対面しました。脳出血発症からわずか2時間。一度も目を覚ますことなく、意識不明のまま、誰と言葉を交わすことなく母は逝ってしまいました。

生まれてこの方、風邪で寝込んでいるところすら記憶にないような元気で丈夫な母でした。前日もいつもの通り庭いじりをしたり夕飯をつくったり。亡くなる5日前にも孫(わたしの娘)の卒園遠足に一緒に多摩動物公園に行ったり。週末に控えていた卒園式、次の週の入園式にももちろん行く気満々で、1月に退職したばかりの父と国内海外いろいろなガイドブックを広げては、大好きな旅行の計画など立てつつあったところでした。本当にあまりに突然のことで、事実を受け入れつつも、家族中がまだ半分夢の中にいるようです。

21日、22日、長い長い2日間が過ぎ、24日に通夜、25日に告別式を終えました。母という大きく太い柱を失い、最初の1週間は家ごと崩れ落ちてしまいそうでした。でも小さなこどもを守るため、次第にみながまとまりつつあります。

ババ(祖母、82)、じじ(父、62)、わたし(34)、風太くん(旦那さん、33)、娘(3)、母に甘えっぱなしだったわが家が再び元気を取り戻すにはまだまだ時間がかかると思いますが、残された家族みなで力を合わせて悲しみを乗り越えていきたいと思いますので、これからもどうぞ暖かい目でお見守りください。
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