縛られ感(2)

あまりシリーズ化したくない内容だけれど(もうしばしご容赦)!

ままのことについての精神状態は、もうだいぶ落ち着いてきています。そりゃもちろん思い出せば、かなしいし、さみしいけれど、だいぶ整理はついてきています。

9月にサーバの移転をし、MT→WPへの移行を行ったのだって、その証しと言えるでしょう。それまでは、とてもそんな気分にはなれなかったし、気力も集中力もなにもなかった。けれど、乳がん騒動があってから、半年間どうしても前を向いてはくれなかった目が、ようやく未来を見つめられるようになったのでした。自分は少なくとも生きていて、現在にいて、そして未来に歩いていかねばならないのだと。それも守らねばならない家族を伴ってね。

それ以来、ひさしぶりに、はりきって、なにか、つまり、WPへの移行作業をして。いろいろいじって楽しくって、safari→firefox2.0も行って、ますますはりきって、よめいりの更新などして。眠っていたアンテナがようやく動き出した感じで、やっと少しずつ本来の自分に戻っていくみたいで。うれしかったのでした。

それでも、まだ、どうしてももどかしさが抜けないのは、これだけ生活が落ち着いてきたというのに、自分の精神状態も回復して、新しい家族の形もできあがってきて、日々のペースができてきたというのに、自分の気持ちが、なかなか仕事へ向かっていかないことに気づいていたからでした。まるで逃げているように。

そう、逃げている。

一昨日、同じように家族をなくされたばかりの知り合いの方からメッセージをいただいて。似たような回復状況でありながら、その方はすでに仕事に向かってぐんぐん進んでいて。わたしだってアンテナを伸ばしているけれど、どうしてそれは仕事方面じゃないんだろう。どうしてわざと仕事にそっぽを向いて、現実逃避しているかのように、他のことに夢中になっているんだろう。ちょっと軽い自己嫌悪におちいったりもして。

でも、それはわたしの場合、生活環境自体ががらりと変わってしまったせいなのだなあ…と、きょうになってはじめて思ったのでした。

ままがいるときには、わたしのライフプランは、漠然とですけれど、こんな感じでした。あと2年もすればほたるも学校にあがってかなり手が離れるだろう。もう1人こどもが生まれたとしたら(それを希望しているわけですが)また1-2年のあいだはかなり寝不足で真夜中作業の仕事になるだろうけれど、それでもそれさえ過ぎれば、当面はゆっくり仕事に集中できるだろう。

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  ↑ ↑   ← このへんから仕事に集中 →   ↑
  ひ 2                     介
  な 人                     護
  た 目                     ?

けれど、その目論見はあっという間に崩れ去り。今のライフプラン(?)はこんな感じです。ほたるはあと少しでだいぶ手が離れるだろう(さみしいけど)。もう1人こどもが生まれたら、ままがいない今、産後すぐにわたしが食事の支度とかしなければいけないのかな。うう、つらいな。それから保育園に入れるであろう2才くらいまでは、寝不足の日々だろうな。ま、それは元からの予定だから仕方ないか。さらにババの目と記憶はかなりぼやけてきている。今はまだ介護というところまではいっていないけれど、あと1年後には一体どうなっているだろう。予想もつかないな。その後だって、あと何年どういう状況でババが生きていくのか。毎日どのくらい介護に時間がとられ、どのくらいの期間それがつづくのか。その後、じじは一体どんな感じでそれに続くのか。

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  ↑ ↑↑       ↑    
  ひ 2介       介             
  な 人護       護
  た 目?       ?

子育てと介護で決定的に違うのは、おそらく、こどもが徐々に成長していくのに対し(だから大変でもそれ以上の喜びがあるのに対し)、介護する年寄りは衰退の一途だということ。そのやりきれなさ。そして、これが最近になってようやく実感していることなのだけれど、子育てにある程度の見通しが立つのに対し、介護についてはかなりの部分が霧の中だということ。いつ、どんな風に介護が必要になり、そしてまたいつどのようにしてそれから解放されるのか、それは、誰にもわからない。

それだから、今のわたしは、なかなか仕事にとりかかれないのだなと、そんなことがようやくわかりました。

もしかしたら明日にも、ババは介護が必要となるかもしれない(ままがいなくなってから、すでに酔って柱に頭をしこたまぶつけ大きなこぶをつくってみたり、何度も鍋を焦がしていたり、野菜といっしょに自分の小指を包丁で切り落としそうになったりしているので、あながち冗談でもありません)。そんな、いつ急ブレーキをかけなければならないかもわからない状況で、どの程度、仕事を再開していいものか、それが今のわたしには判断できず、足踏みしているのでしょう。

(1)いずれ介護が必要となっても、ペースを落とさず走りつづけられるほどのゆっくりとしたスピード(つまり現状のまま)で、その時が来るまで走りつづけるのか(どれだけ仕事に物足りなさを感じたとしても)。

(2)あるいは、いっそ、走ることをやめて、今から赤信号に備えておくのか(でもそれだとほたるが保育園にいられなくなってしまうかもしれない)。

(3)はたまた、少なくとも今はまだババも(それなりに)健在で、わたしにも時間があるわけだから、今できるだけの仕事をきちんと再開して、その時が来たら、またその時考える(おそらくは方々に謝りつつ急ブレーキをかけさせてもらう)のか。

ちち曰く、わたしは未来のことを考えすぎて、心配しすぎるタチだそうです。ババ曰く、あんたはいろいろややこしく考えすぎる、だそうです。お世話になった助産婦さん曰く、そんなに頭でばっかり考えない、だそうです。

こういうみんなは、きっと(3)を選ぶんだろうな。わたしもそれを選んでいいのかなぁ。どうだろうなぁ。

2 Responses to “縛られ感(2)”


  • 子育てと介護についての考え、私もまさにそう思っていました。見通しが立つか立たないか、これって気持ち的に全然違いますよね。私の母(ばあちゃん介護中)もそう言ってました。

    介護って、ほんのわずかの期間かもしれないし、もしかしたら何十年もするかもしれないし。もしも今の仕事が好きだったらば、私も3を選ぶと思います。それで、できれば、お仕事のパートナーでも見つけておくとか…って、全然仕事のことわからないのにごめんなさい。びゃっこさんにとっていい道が見つかるといいな。

  • >hitomiちゃん

    どうもありがとう。そうか、やっぱりお母さんもそうおっしゃってるんだ。

    介護というのは、これまでまだもう少し先のことだと思っていたからピンと来ていなかったけれど、本当に難しいことなんだね。介護する人は、やはり縛られて自由がなくなってしまうでしょう。ほとんどの人はそれを苦痛に思うだろうけれど、介護が終わる、再び自分に自由が戻るというのは、大抵の場合、介護している相手の重病化や死によってもたらされるわけで。望みたいけれど、望んではいけないというような。すごい葛藤とストレスがあるのだろうなと思います。

    仕事のパートナーね。うん、一度も考えなかったわけではないのだけれど、まだ収入的にかなり厳しい状況で、まっとうなオファーができないんだよね。近所のパートなどの方がよほど稼げるだろう状況で、人を引き入れるのは、心苦しいし現実的ではなくて、最近では考えから外れていました。でも、そういう時が来るまでに本腰入れて(と言っても子育てしつつだけれど)もう少し収入を増やしておけば、可能性はあるのかな。うむ。ご意見どうもありがとう。

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